震災から一ヶ月が経ちました。
たくさんの方々から励ましのメールやコメントを頂戴し本当にありがとうございます。
急ぎのご連絡のみしか返信できず、本当に申しわけございません。
頂いたメールやコメントはすべて目を通しておりますが、通信手段が限られているためご了承下さい。
志津川中学校では、仮設住宅の建設が進んでいます。
瓦礫の街には次々と電柱が立てられています。
南三陸町ベイサイドアリーナの体育館にも足を伸ばしました。
アリーナの壁には全国から寄せられた励ましのメッセージが。
アリーナ通路にて。
自社工場から南三陸町を眺める。
志津川小学校にて。
そして昨日、取引先や同級生が多く住む気仙沼市内へと震災後初めて足を運びました。
気仙沼市松岩地区。かつて鼎ヶ浦高校があった通りは、見渡す限り瓦礫の山でした。
気仙沼漁港。かつて賑わっていた通りは、人通りがなく潮風と埃まみれに。
南気仙沼駅付近へ。駅へは車で入ることができません。河北新報気仙沼支社前から港方面。
通りの先は、浸水していました。
気仙沼市大谷地区。毎年夏には沢山の海水浴客で賑わっていた大谷海岸も、その周辺すべての建物が津波で崩壊していました。
気仙沼線の線路も、津波によって引きちぎられています。
そして南三陸町。改めて我が家の上で。この光景を見ても、未だに実感が沸きません。
志津川中学校から。
そして、更新が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
先日、どうしても息子に会いたくて会いたくて
嫁と息子が疎開先している四国へ行きました。
震災直後、仙台市内にいた嫁と一歳になったばかりの息子。
瓦礫の中を進み、ようやく見知らぬ避難所にいた二人を見つけました。
電気も水道もない数日間、体を寄せ合う様に丸まって過ごした日々から数週間。
久しぶりに会った息子の元気な姿に救われました。
そして先日、南三陸町に戻りました。
同級生とも、ようやく少しの時間だけゆっくりと話をすることができました。
亡くなってしまった同級生の事、自分の家族のこと、これからの南三陸町の事を話しました。
偶然瓦礫の中から見つけた同級生の結婚式の写真を渡すこともできました。
観光協会に勤めていた同級生とも、ようやく会うことができました。
彼女は今、震災で亡くなった役場職員の代役として
仮設役場で毎日業務に明け暮れています。
彼女が続けていたブログも、更新できずにいるから
せめて自分が元気だということを、このブログで伝えてくれと頼まれました。
我々の世代がこれから担っていく、この現実をしっかりと受け止め
進んでいこうとお互いに誓いました。